ノート:セミクジラ
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セミクジラ属 Eubalaena と E. japonica (ジャポニカ)

現状は、ジャポニカの項目にもかかわらず、ジャポニカについての記述なのか不明な箇所があります。

ウィキペディアではよく、○○属の説明を、その属の中で一番有名な「○○」という種の項目を利用して、同じページで記述していますが(ここでは、セミクジラ属とジャポニカ)、しかしながら、大抵の場合、他種を書くときは、明示的にわかるように書かねばならないと考えられます。

あるいは、○○属の項目でまとめて書くか、大きなテーマの場合は独立した項目にする(see also や main でその項目に飛ばす)ようにして、たとえば、捕鯨を詳しく書きたい場合は、既に用意されている捕鯨という項目を選んで書くべきかと思われます(ウィキペディア内で、大きなテーマがあちこちに分散して書かれますと、校正が不十分になり、最悪の場合はページごとに違う見解が書かれることになります)。捕鯨日本の捕鯨などの、生物種ではない項目の場合は、クジラの種類の特定が多少不正確でも書けるというメリットがあります。

具体的には、セミクジラ属は3つの種があり、うち1つの種が北太平洋にいる種で、ジャポニカと、タイセイヨウセミクジラは棲んでいる場所が異なりますが、捕鯨(特に歴史)に関しては混同して書かれています。また、生息地が違う別の属のホッキョククジラの減少から、ジャポニカの減少も推測させたり、西洋の文化(たいていは、タイセイヨウセミクジラ由来の文化)と、ジャポニカによる文化を混同していたり、科学的な記述とは申せません。 --べあぱーく会話) 2013年1月17日 (木) 11:30 (UTC)一部修正 --べあぱーく会話) 2013年1月25日 (金) 18:25 (UTC)[返信]

ぶっちゃけいうと長い間セミクジラ属を一緒くたにしていた時代が長いので、文化の歴史などを語る場合個々の種で区別するのはほぼ無意味だと思います。
(これについては「セミクジラ属」の項目があればいいのですが、それがない以上該当部位冒頭部に「種の区別をつけるようになったのは最近で属単位の話である」と断ればいいと思います。)
例として1851年発表の小説『白鯨』(作者が捕鯨船に乗っていた経験がある)の第32章「鯨学」で当時のセミクジラの分布(原文はそれらに欧米各国の捕鯨船がセミクジラを取りに行くという説明)を「北極海・インド洋・ブラジル沖・北米大陸両岸最北端の海」とあり、現在の分布域のデータを見る限りセミクジラ属全種どころか別属のホッキョククジラも当時は「セミクジラ」と呼ばれていて、同じように西洋の捕鯨船に利用されていたらしいことがわかります。漁場に分布しており特に区別されてない以上「ジャポニカ種の鯨髭は西洋で利用されていたと書いていいのか?(=大西洋の種だけ取られていたのではないか?)」という疑問もナンセンスでしょう。
(ただし、同じところで「イギリス人の言うグリーンランドクジラとアメリカ人の言うセミクジラは別種じゃないかという説もある」という記述があり、グリーンランド近海にいるホッキョククジラはセミクジラとの違いが疑われ始めていたようですが…なお作者は「特に見たところグリーンランドクジラとセミクジラに違いはない」と言い切っています)--
カーラ・ミーキタ会話) 2018年1月14日 (日) 13:49 (UTC)[返信]
独自研究?
古式漁法で減少が顕著?

(原文引用)日本の沿岸では古くから古式捕鯨の対象として重要視されていた為、地方個体群へのダメージは大きく、18世紀から生息数の減少が顕著になりはじめた。[1](引用ここまで)^ 古賀(2010) ⇒http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/kujira/02.pdf 西海捕鯨業における地域と金融―幕末期壱岐・鯨組小納屋の会計分析を中心に―]. 九州大学総合研究博物館. Retrieved on 2013-01-16.

記述者様がお示しになられた出典には、『18世紀末』に日本最大の水揚げの壱岐の『好漁時の捕獲高は他の捕鯨場の2倍以上(約50頭)に及び』とあり、生息数が顕著に減っているならば漁獲高も減少しなければならないはずなのに不可解であり、更に『19世紀に入り太平洋で活発化するアメリカなどの捕鯨船の活動と、その影響による西海地方での捕獲高の減少』とあり、大きく矛盾しているようです。記述者さまが出典を示せないようですので、独自研究に該当すると思われます。 --べあぱーく会話) 2013年1月17日 (木) 11:30 (UTC)[返信]
鯨の減少は19世紀からです

上記の出典(古賀2010)から読み取れる情報としましては、安政年間(十九世紀中ごろの話)に鯨の水揚げのピークを迎え、その後はじめてクジラの漁獲高が一部の地域(壱岐)で減っております。これは19世紀(1801-1900)の話です。記述された「18世紀」においては、出典の通り、徐々に鯨捕り漁師の人数(番屋の数)が増えていった時期です。要は、生息数が減っているならば、「たいして漁法の進歩のない時代の日本の漁民」が、毎年、安定した鯨の水揚げを行えるのか?という素朴な疑問です。 --べあぱーく会話) 2013年1月19日 (土) 16:36 (UTC)[返信]
偶然発見したクジラを捕る漁

(原文引用)子鯨を最初に殺してから、子供を置いて逃げることができない親鯨や、一度逃げても子供を想い再び戻ってきてしまう親鯨をも一網打尽にする手法は、日本の古式捕鯨でも常套手段であったとされ、各地に残る舟唄 等の資料からもこの事が判明している。(引用ここまで)(途中の出典・及び出典無効は除外)

記述者がお示しになられた出典は(、一部が出典無効(特定できない人物・団体が書いたもので、ウィキペディアに掲載できない「未確認情報」と思われます)でありますが)、それ以外の出典群は、単に漁師の願望が(例えば歌などに)こめられているだけで、「漁獲高が多いほうが収入が得られる」という趣旨の願望を込めているだけで、「常套手段であった」を明示的に示す資料になっておりません。

蒸気船がなかった頃の原始的なクジラ漁は、陸(おか)から見える範囲に発見されたクジラを、地元民(数十人以上の規模)が、一攫千金で命がけで捕りに行くスタイルなわけでして、ただでさえ「いきあたりばったり」の偶然なのに、やってきたクジラが「大きなオスクジラか、メスクジラか、母子連れか、両親と仔か」などの区別はつけられないはずです。江戸時代に一番水揚げが多かった壱岐(長崎県)でさえ年間50頭「しか」捕獲できていません。壱岐には5組の鯨捕り漁師集団が当時おり、数字はそれらの合計です。日本の他の場所ではこの数字の半分以下です。この数値では、「一網打尽」や、「常套手段」や、親子連れを無慈悲に狙っただのを書けないと考えられ、、また書ける出典群でもありません。正確には、「日本では、沿岸に来たクジラを小舟(和船)で捕っていて、毎日水揚げがあるわけではなかった」程度しか書けないと思われます。この意味では「盛んに漁がおこなわれていた」という記述も、一か所で年間20数頭以下の鯨を捕っていただけの日本では記述できかねるかと思われます。例えて言うと、アフリカのブッシュマン(さまざまな部族がいるそうですが)が、長い歴史のもと、アフリカゾウを時々捕獲していたのを「盛んに捕獲していた」と表現するのと同じで、それはブッシュマンとゾウは共存していただけであるのですが、同じように、北大西洋でセミクジラを捕りつくした欧州人が場所を北太平洋に変えたために、沿岸でしか漁業ができない日本人が漁ができなくなるほどの甚大な結果となった(定説)のであります。 --べあぱーく会話) 2013年1月17日 (木) 11:30 (UTC)[返信]


(原文引用)子鯨を最初に殺してから、子供を置いて逃げることができない親鯨や、一度逃げても子供を想い再び戻ってきてしまう親鯨をも捕獲する手法は、日本の古式捕鯨でも行われていた(引用ここまで)


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